神の愛は、無限の愛。皆に平等に常に与えられている。

2019年2月6日

今回も“Why I Love being Catholic”という本の中から印象に残ったお話を一つ。

Why I Love Being Catholic: Dynamic Catholic Ambassadors Share Their Hopes and Dreams for the Future

 

Kathryn Poston(キャスリン・ポストン)という方が書かれた文章です(本文P59)。

彼女は近所の刑務所に、聖餐(せいさん:イエス・キリストの最後の晩餐に由来するキリスト教の儀式)を行う聖職者として通っています。

管理人注:聖餐についての詳しい説明はこちら

その刑務所では最高レベルの監視がなされており、殺人、強姦といった重度の犯罪を犯した人達を収容しています。

そこで生涯を終える人もあるそうです(終身刑ということでしょう)。

通い始めた当初彼女は、このような人達にも信仰心の篤い人がいるのかとに驚いていたようですが、やがて、ここにこそ神が存在する特別の意義があると思いようになります。

 

ある時、何かお祈りしたいことがありますかと尋ねたところ、ある囚人がこう言ったそうです。

”自分の犠牲になった人のために、自分の罪を赦してくれるよう祈るのではなく、その人の心が癒され、再び完全な人として生活することができるようにお祈りさせて下さい。”

彼らに自分の罪を軽減させてくれという意識はなかったそうです。

今となってはもうただただ、犠牲になった人の回復を願う気持ちだけだと・・・。

 

 

 

私が思うに、おそらくこれらの人々は元々信仰心に篤い人達で、犯罪を犯した当時、全くの”別人”であったに過ぎない。

何かに憑りつかれていた、と言っていいかもしれない。

そして重大な、取返しのつかない過ちを犯してしまった。

本来の善良な人間に戻って、日々懺悔の気持ちと供に今は生きているに違いないが、犯した罪は償わなければならない。

 

彼女ははこう言っています。

“I never dwell on their crimes but only on where they are in their faith journey now and how they can help each other to reach their potential as brothers in Christ.

(彼らが犯した罪を受け入れることは決してできないが、彼らが今行っている信仰への旅を続ける限り、そして同じキリスト教を信奉する兄弟としてさらなる高みを目指し、互いに助けあう限り、私は彼らとともに人生を歩んで行くことができる。)”

 

 

 

殺人を犯してしまった人の罪とはいかほどだろうか?

その行為自体決して許されることはない。

また、どんなに悔いたところで、殺めた人を生き返らせることはできない。

できることは、ただ謝ること。

自分が殺めた人の冥福を祈り、残された家族が少しでも立ち直ることができるようにと祈るしかない。

そんなことしかない。

残りの人生、一生刑務所で暮らすか、あるいは殺人者として負い目を背負って生きて行くのか。

いずれにせよ、絶望の人生だ。

でもそんな彼らを見放すことなく、常に大いなる無限の愛でいたわり包んでくれるのが、神の愛だ。

神の愛はどんな極悪非道な人間にでも、変わることのなく平等に常に与えられている。

彼らがそれに振り向きさえすれば、それはそこにいつもある。

キャスリンさんが刑務所に通って聖職者としての仕事をする意義もそこにある。

神様はあなたたちがどんなにひどい罪を犯しても、あなたたちを愛し、救いだそうとしていますよ。

それは絶対に変わることはありませんよ。

だからあなたたちは辛い時、絶望の気持ちに包まれる時には神様の愛に心を振り向ければいいのですよ。

神様は常にあなたたちを見守っていますからね。

 

重大な罪を犯した人こそ神の愛に癒されるべきなのだ。

それをキャスリンさんは知っている。

そして神の愛に本当に目覚めた時、その人は心から懺悔して新しい人間に生まれ変わる。

 

人間皆神の子であり、誰もが皆、神の無限の愛に常に包まれている。

 

今この時もね。


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