小池百合子知事、虚飾の履歴書疑惑から考えた、はっきりと“No”を突きつける姿勢の大切さ。

2018年9月1日

同時期に偶然次の二つの記事を読みました。

一つは、谷口雅春先生著『明窓浄机 修練篇』 ”あまりにも忙しい私の近況(P278-287)”

もう一つは、文藝春秋 2018年7月号 「小池百合子「虚飾の履歴書」」

読んだ順番は、『明窓浄机』がちょっと先です。

この二つの話を読んで思ったことが、この世の中は多くの虚飾でまみれているのが現実であるが、虚飾に迎合してはいけない、そこの線引きはしっかりしないといけない、ということ。

 

いきなりこんなことを言うのも不躾ではありますが、単なる”いい人”であってはいけませんよ。

”まあいいかぁ”で済ませて、そのまま時間が流れて行き、何の行動も起こさないままでいるとまた同じ過ちに遭遇することになります。

苦しむのは結局自分であり、相手をのさばらせることに繋がり、さらなる犠牲者を生むことにもなります。

明らかに間違っている事に対してはしっかりと、”NO”を突きつけなければならない。

当然の事なのです。

 

心に何か違和感がある、でも吐き出せないでいる・・・。

明らかに間違っていると分かっているけれども行動に起こせない・・・。

そんな方に以下の話お贈りして考えて頂きたいのです。

文藝春秋 2018年7月号 「小池百合子「虚飾の履歴書」」

ノンフィクション作家、石井妙子さんが書かれた記事です。

衝撃と驚き・・・。

かなりの力作と私は思いました。

ニュース・マスコミを通して見る小池知事のイメージと、その根底にある本当の人間性はこうも違うのか・・・、恐ろしいくらいです。

たくさんの人が騙されている、あるいは知っていても気にしないようにしているのか・・・。

都知事のHPに行くと小池知事のプロフィール、以下のように出ています(ここよりお借りしました)。

私が黄色でハイライトした箇所、1976年10月、カイロ大学文学部社会学科卒業、とあります。

管理人注:下小池百合子知事です。ウィキペディアよりお借りしました。

 

確かに卒業されたかもしれない。

”証書”をもらっている、という事実の点からはね。

でも実質のところ、どうだったのでしょうか。

石井さんが書かれた記事によると、実質的には”虚飾”卒業だったようです。

つまり、どうやら卒業に必要な教科の試験を実際に受けてパスして得た卒業証書ではない、ということ。

世間一般的通念として想定される”卒業”とは違うんです。

これって世間の人をだましていませんか(なんと”首席で”とまで唱っていた時期もあったようで、それはさすがにやりすぎでしょう:苦笑)?

実際私も、小池知事はアラビア語得意なんだ、ってイメージもってましたからね。

そんな不正まがいのことをしていて、良心が痛まないのでしょうか。

証書に”試験の結果『良』の成績を収めた”と書いているからといって、それが真実かどうかはご自身が一番ご存知でしょう。

あの記事を読む限り、それはあり得ないという結論になっていますが、もし記事の内容が真実でないならば、きちんと反論されては如何ですか?

あんなこと書かれて、重大な名誉棄損ではありませんか?

それをされない限り読者はあの記事を真実として受け止めますよ、小池知事。

日本の新聞にまず”卒業”と載ったらしい。

決定的なシーンが生々しく描写されています。

時は1976年。

当時エジプトで一緒に住んでいた女性に、日本から戻ってきた小池さんがある新聞記事を手渡します。

「どう?」

と、その眼が語っていた。

中川さん(管理人注:当時小池さんと一緒に生活していたルーム・メイト(仮名))は息が苦しくなり、こう尋ねるのが精いっぱいだった。

「そういうことにしちゃったの?」

「うん」

文藝春秋 2018年7月号 P175

 

その新聞記事には、小池さんがカイロ大学を卒業した、という記事が載っていたのですね。

その記事を中川さんに渡して、”あなたは嘘だと知ってるけど、日本では卒業したことになっているから、そういうことでよろしくねっ”、という口裏合わせを(暗黙の了解で)したシーンです。

もしそれが本当だとしたら、人間として基本的な道徳心を持ちあわせていない人が東京の都知事をやっているってことですね・・・。

・・・しかし残念ながら、実は結構このような虚飾にたけた人がのさぼるこの世、それが現実のようです。

普通の人の感覚だったら罪悪感を感じるようなことも、事も無げにスルーして断行してしまう面の皮の厚さ(ちょっと失礼な表現ですが)とでもいうのでしょうか。

そういう人物の所業がいつも見逃されると思ったら大間違いです。

声をあげる誰かが必ずいるものです。

それが冒頭に戻っての”NO”なんです。

石井さんはこの記事をかくことで、小池知事に”NO”を突きつけているのです。

今からでも遅くはないですよ、小池知事。

小池知事のアラビア語の能力は英語のレベルでいうと、”This is a pen”程度だったらしく、そのレベルでカイロ大学に入学するとは、英語でいうと、ハーバード大学に入学するに等しいとのこと。

”This is a pen”って小学生レベルですよね・・・。

だから絶対に無理なんですよ、普通に卒業するなんて。

いや、100%無理とは言い切れないが、限りなくそれに近い。

だってそのレベルで授業を受けて、何が理解できるというのか?

何も分かりはしない。

それは私もアメリカの大学を卒業したので分かります。

もちろん私のレベルは”This is a pen”より遥か上です(笑)。

それでも、すっごい大変で苦労しました。

しかもハーバードのレベルでしょう。

はるかかなた雲の上、自分にはどの程度が分かりません。

だから、”This is a pen”のレベルでハーバードを卒業するなんて、もうぜった~~~ぃに、ムリ、って私には正に良く分かりますよ・・・。

実際この記事には、彼女は試験の質問さえ理解できなかった、とあります。

そうでしょう、そうでしょう。

それで一体どうやって試験を受けて”良”の成績で卒業できたのでしょうか、小池知事。

 

・・・正直私の感想を申し上げます。

大学卒業に限らず、政治家としての実績も多くは”虚飾”なんじゃないんですか。

この記事を読む限り、そんな”イメージ”を抱く人もいると思いますよ。

実際のところ、小池知事が今までどういった実績を積み上げてきたかなんていちいち調べないでしょうから、この”虚飾”卒業一つの悪事だけをとってみて、万事ととらえられかねませんよ。

 

あなたはもちろん全ての真実を知っていますよね。

今からでも正直言ったほうがいいんじゃないですか?

人生の価値は何を得たかで決まるのではない、自分が何であるか、で決まるのです。

都知事になろうが、総理大臣になろうが、大統領になろうが、この世で一番の権力者になろうが、自分の良心に嘘をついていたら、善良な一介の清掃士にも魂の高貴さでは及びませんよ。

真偽晦まさずです。

今良心が痛まないからといって、全て終わった時に、あなた自身がそれを一番思い知ることになりますよ。

嘘をついてまで、名声、名誉、権力を得ようと思うかね・・・。

そんな虚飾にまみれた栄光は所詮この浮世でしか通用しませんよ・・・。

 

・・・おっと、東京都知事に向かって説教しちゃいました(笑)。

今からでも遅くありませんと、そのことだけ再度お伝えしておきます。

 

 

 

実相、実相とばかり言っても空論ではないか。

上の標題、人によっては、ちょっと過激な発言と捉えられるかもしれませんね。

まずは、谷口雅春先生が述べられている次の文章を紹介します。

私の中では非常に印象に残ったお言葉です。

「汚れ物」は、「實相に於いては汚れ物はないのである。

だからそれを汚れ物扱ひすることは間違いである。

その實相の清らかな姿さへ念じておけばよいのである」とて神想観して「汚れ物はない、みんな既に清浄である」と念じただけでは、その布は清らかにはならないのである。

汚れた布を清浄にするには「汚れ物」が其処にあるという「現実把握」がなければならない。

それと同時に「本来これは清浄である。

汚れは唯表面に一寸ついただけである」という實相清浄の認識があり、だから「洗濯機にかけなければならない」と云う現象界に於ける方法論が出てくるのである。

この三者が揃ふことがなかったら、現實にその”汚れた布”は清らかにはならないのである。

洗濯機の中では洗剤の溶液の中でその「布」はこづき廻され、あちこち叩かれ、こちらを叩かれするのである。

これは、「布」の清らかな實相をあらはすための「愛」の打撃である。

真の「愛」は決して「甘い」だけのものではないのである。

「明窓浄机」P284

 

先の小池知事の話に戻ると、彼女は一種裸の王様なのかもしれない。

あまりにも地位が高くなりすぎて、皆がおかしいと分かっていながらも、口に出せないでいる。

言わない方が利益を得る人が多いからだろうし、また利害関係者は変な損害を被りたくないのだろう。

 

人間は本来皆貴いものである。

だからその貴さのみを見つめて、それがでてくるようにと祈っていたら、それだけでいいのだろうか。

それは違うと谷口雅春先生はおっしゃってます。

 

それは結局”空論”じゃないでしょうか。

”絵に描いた餅’に過ぎないんじゃないでしょうか。

実際の行動が起こって初めて物事は成就するんじゃないんですか。

祈りから実際の行動へと移っていって初めて、それが本当の祈りなんじゃないんですか。

もしそうでないとしたら、それは本気度が足りない、たんなる気休め、自己満足にすぎないんじゃないですか(って、かなり厳しい言い方ですが)。

 

 

まとめ

間違った行い、理不尽な行動、明らかな嘘などに遭遇した場合の対処についての簡単なまとめです。

1.”まあいいか”と安易に見逃さない。それは自分にも、誤ったことを犯している本人にも良くないし、新たな犠牲者を生むことにも繋がる。

2.だから明確に、”NO”と不正を犯している人に突きつけることである。時には対決姿勢を取るとることも必要なのだ。

3.誠の愛行とは峻厳なるもの。「愛ふかき冷淡」になれる幅広さこそが”峻厳なる寛大”であるのだ、と雅春先生は教えて下さっています。

このことは日常生活で遭遇する全ての人達に対する心がまえでありますが、特に権力者を絶対善であるとの思い込みはやめましょう。

先にも述べたように、一介の善良な清掃士でも、一国の主よりも高貴な魂の持ち主で当然ありうるのです。

俗世間の基準で人物の良し悪しを量るのか、それとも地位、名声などに関係なく魂の純潔さで量るのか。

あなたにとっての人物を量る”真眼”とは何でしょうか?

それによってどのような人生を歩んで行くのか、大きく違ってくることでしょう。


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