『今』をしっかり生きてますか?

2018年8月14日

今を生きるということですが、改めてどういうことでしょう。

”何言っているんだ、生きているという事実そのものが、とりもなおさず今を生きているということじゃないか。”

・・・そう言えばそうです。

生きている=今を生きている、当たり前のことです。

しかし、次のパターンを考えてみるとちょっと意味合いが変わってきませんか。

今を生きている、でも過去の悪い出来事を引きずったままに・・・。

今を生きている、でも将来の不安を抱えたままに・・・。

これでは現象的には今を生きていることに変わりはないですが、心情的には今を生きていない、といえませんかね。

だって気持ちは、過去のある時点に留まったまま、あるいは将来のことを心配したまんまなんでしょう。

それじゃ今起こっていること、やっていることに関心がもてないでしょうから、ただ時間が経過しているだけ、気持ち的には過去に生きている、将来への不安に生きている、と言えませんかね。

つまり実質的には、今を生きているとは言えないんじゃないでしょうか。

 

過去に囚われず、将来に不安を抱かず今この時を精一杯生きて行く、それが本当の意味での『今』を生きるということではないかと思うのです。

 

過去に起こったことに囚われない。

過去に起こった不幸な出来事にいつまでも心が囚われてしまうことがあります。

それが愛する人を失うなど、絶望的な事態であれば尚更でありましょう。

”生命の実相哲学”を提唱された谷口雅春先生が、次のようなことを述べておられます。

 

「済んだ事の中に生活せず、『今』の中に生活せよ。

『今』は常に生きている。

『今』の中にはあらゆるものが輝いている。

『今』は常に新しく、『今』は常に喜びに満ちている。

過去にどんなに悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな。

『今』天地は一新したのである。

もう別の天地に生きているのである。

過去に寒風に吹きさらされたことを嘆かないで、『今』梅の花は喜びに満たされて咲いている。

梅の花よりも強く尊くたくましきが人間である。

喜ぶべきことしかないのが人間である。」

 

このブログでも紹介しましたが、私も過去に辛い出来事を経験して、精神的にまいってしまったことがありました。

誰もが一度はそのような辛い悲しい出来事を長い人生の中で経験するのだろうと思います。

そういった中、その辛い悲しい出来事にいつまでも囚われないで生きて行くヒントが上の言葉にはあるように思います。

それは、今の生活の中に喜びがある、ということ。

過去の悲しい出来事に心がとらえられ、それのみを見つめているから、今眼前にある喜びに盲目になっている。

探そうと思えばいろんな喜びが身の周りにはころがっています。

美味しいご飯が食べられる。

支えてくれる友人がいる。

雨風をしのぐ住むべき家がある。

愛すべき人がいる・・・。

普段当たり前のように思っていることですが、ちょっと周りを見渡すと、いろんなありがたい喜ぶべきことに囲まれていることに気づきます。

道端に咲いている花の美しさ、吹く風にさざめく木の葉の音、そんな普段は全く気にしないようなことでも、”自然の美の現れ”として、実は吾々の周りを喜ばしく埋め尽くしてくれているのですね。

いつもそこに眼前にあるから、当たり前の光景になっていますが、全てが吾々に贈られている有難い”ギフト”なんじゃないでしょうか。

考えてもみて下さい、もし吾々の日常から一切の木々が、花々が消滅してしまったとしたら・・・。

それこそ味気ない、無機質な、生命力のない、喜びのない殺風景に包まれてしまうでしょう。

辛く悲しい時にこそ、周りに広がっている有難い喜ばしいことに目を向けてみませんか。

その喜びに目を向け、有難い気持ちに浸るだけで、過去の悲しみ、辛さも軽減されてくるのではないでしょうか。

 

 

もうひとつは、辛い経験を経て成長するということです。

上の梅の花の例でいうと、春の訪れの前に梅は必ず寒く冷たい冬を過ごします。

その辛い時期を寒風にさらされながら、じっと我慢して耐えて、花咲かすべく春を待ちます。

吾々人間は梅の花よりも、もっと強くたくましいものですから、辛く悲しい出来事もさらに耐え難くかつ長期間に渡るかもしれません。

しかしだからこそ、それに耐えた暁の成長も大きく、大輪の花を咲かせることができるのです。

 

 

木は成長するごに年輪を刻んでゆきます。

過去の成長の記録といってもいいでしょう。

吾々人間も同じことです。

辛い出来事を経ているまさに今、大きな年輪を刻んでいるのです、成長しているのです。

立ち上がることさえできれば、辛い悲しい出来事は、自分をより一層愛深くたくましい人間にするための肥やしとなってくれます。

止まない雨はないし、明けない夜もありません。

今ある喜びに目をむけて、自分を信じて歩んで行きませんか。

その時あなたは、きっと過去よりももっと大きな自分に成長しているのです。

 

 

 

将来に不安を抱かない。

起こってもいないことを不安に思ったり、取り越し苦労したりするのは”ヒマ”なんです。

無我夢中で生きていたら、そんなヒマはないはずです。

 

上の文章は、片岡鶴太郎さんが近著「心の中に「静」をもつ」、P183で述べられている言葉です。

かなり辛辣な文章ですね。

悩んでいる人は、”ヒマ”なんだ・・・。

 

この”ヒマ”は、”無我夢中”の欠如だと鶴太郎さんは言われています。

今を一生懸命に生きていれば、心に不安や恐れが入り込む余地などはない。

なぜなら将来に不安があれば、それに対応する処置を考えて実行に移せばいいだけの話ですから。

それを考えず、実行に移さないでおいて、不安だ、不安だと嘆いておいては益々不安になるばかりです。

その事を鶴太郎さんは”ヒマ”と表現しているのですね。

熟考して行動を起こしたら、後は結果を待つ、そしてそれで失敗したらどこがまずかったかを反省して再トライする。

それだけのこと、何も不安に思うことはないですよ、と鶴太郎さんは言っている。

 

以前述べていますが、取り越し苦労ほどやっかいなものはない

これが基に、よからぬ思想、悪癖等起こってきて人生を狂わすのです。

だから取り越し苦労だけは絶対にするべきではありません

鶴太郎さんもその事は十分ご存知で、自分の力を信じて精一杯やれば、必ず何とかなるものだし、なんとかならなくても神様が必ず見てくれていると言われています。

彼は宗教家ではありませんし、神様という言葉を使うことにためらいがあるようで、神様を”大いなるもの”と但し書きされています。

表現は違うとはいえ、眼には見えないが確かに存在している”力”を彼は信じている。

その力が、何が起ころうとも見守っていてくれて、いざと言う時には必ず助けてくれる。

その信心が基にあればこそ、将来の不安、取り越し苦労に一切思い煩わされることなく、成功を信じ、大安心の境地で、適格な処置をその場、その時、その人に応じて講ずることができるのです。

 

 

 

今を生きる―まとめ。

過去に囚われず、将来に不安をいだくことなく精一杯生きて行く、それが今を生きるということなんですね。

以下簡単なまとめです。

1. 日々の生活の中に喜びはたくさん転がっている。その喜びに目を向けよう。

2.過去の辛い出来事を経て吾々は成長する。自分にその苦難を克服する力はあるのだ。

3.将来に不安があるなら、対処を講ずる行動を起こそう。”ヒマ”な状態から脱却しよう。

4.取り越し苦労は絶対にしない。自分の力を信じて、精一杯生きていれば、大いなる力が必ず後押ししてくれる。

多くの場合問題は、過去の出来事に囚われていることと、将来に対する不安が混在したものでしょう。

上の4事項はその両方に対処し得るものです。

もう一度おさらいしますね。

① 過去の苦難に囚われず、
② 今ある喜びに目を向け、
③ 将来の不安に対しては行動を起こし、
④ 必ずうまく行くと信じ取り越し苦労をしない。

これが今を生きるということ。

吾々は過去を生きているのでも、未来を生きているのでもない、『今』を生きているのです。

 

心の中に「静」をもつ

鶴太郎さんの近著について以下でも記事にしています。


PAGE TOP