僕が考える、いい歳の取り方(パート2)。

さて今回はパート2ということで、前回述べたパート1のストーリーを基に、いい歳を取るとはどういう事かについてお話します。

パート1をまだ読んでいない方はこちらをどうぞ。

僕が考える、いい歳の取り方(パート1)。

 

それでは早速行ってみましょう。

 

小学生の時の体験。

小学校2~3年生の時のこと。

5円玉の穴よりも、ちょっと小さい位の大きさだったように思う。

夏休みの日中、近所の公園に行っては大木の根元にある、そんな小さな穴を探し歩いていた。

穴を見つけるとほじくり返し、少しだけ大きくして水飲み場へと走る。

水を口に含み、穴のあった場所に戻ってくると、その穴に向けて少しずつ水を吐き出してゆく。

穴の中は狭いようですぐに水で埋まり、溢れた水が地上へと出てくる。

しばらくすると、泥水にまみれたセミの幼虫が、ゆっくりと苦し気そうに穴から這い出てくる。

それを捕獲して自宅に持ち帰り、カーテンに吊るしていた。

やがていかつい茶色の幼虫の殻を破って、真っ白で綺麗な体をした成虫が現れ出てくる。

それを子供心ながら驚嘆の念をもって見つめていた。

 

 

全ての幼虫が成虫に”変身”できた訳ではなかった。

殻を破り、半身を外に出しながらも完全には抜けきれず、そのまま息絶えてしまうものもあった。

その半身はいずれ黒く変色し、周囲に悪臭を放って行く。

 

幼虫から成虫に、変身出来たものと出来なかったもの。

その違いをその時深く考える術は当然ないにしても、幼虫から見事に変身した成虫の美しさに感嘆する一方、変身を遂げきることができなかった半身には可哀そうな想いを抱いた。

自分が無理やり捕獲しなければ、無事成虫へと変身を遂げていたものもあったことであろう。

無知な子供が興味本意でやったこととはいえ、今思うとすまないことをしたものだ・・・。

 

”成虫”になるということ。

歳をとるとは、現象的には”老いて行く”、ということ。

体は硬直し柔軟性を失い、肌には皺が増え髪は白くなり、やがて抜け落ちる。

見た目には”劣化”して行く。

この過程は誰にも避けられないし、誰もが通る道でもある。

しかし現象にのみ心囚われ思い煩うことは、一方向のみから物事を見ることで真理ではないだろう。

上で述べたセミの幼虫が成虫へと変身する話が、どうも人間の”変身”と同じように自分には感じられるのだ。

仮に今の自分を幼虫であると考えてみると、吾々は成虫になるその時に向けて日々人生を歩んでいると言えるのではないだろうか。

無事成虫になりきるのか、それとも成虫になりきれずに終わるのか、その道程に吾々はいるのではないか。

だとすると、いい歳を取るとはすなわち、無事成虫になり切る事を叶える日々を重ねて行くことではないか。

僕はここで死後の世界を殊更強調しようとは思わない。

死後の世界において天国に行くという観点からこの世を生きて行くことは、正しい生き方とは思えない。

そもそももしそうだとしたら、死後の世界を信じない人にとっては全く関心の無い事となってしまう。

いつ来るかは分からないけれども、この世を去る時点の心境がどの様であるのか、その心境のグレードを高めて行くことがいい歳の取り方であると僕は考えている。

そしてその理想の心境を自分自身の心の内に作り上げて行くことが、”成虫”への変身を叶える道程であろう。

突き詰めると、自分とはすなわち心境である。

眼には見えないが、そして他人のそれはもちろん分かりはしないが、各人の心の内に確かにそれは存在している。

 

 

 

心境のグレードアップを目指す。

心境のグレードを高めるとはどういうことだろう。

パート1で悪蔵と善蔵の話をしたが、両者の最大の違いは何だろうか。

悪蔵の想い・行動は全て自分の利益にのみ関連しており、それを最大限満たすためならば他人のことはどうでもいい。

詐欺を働くことも厭わない。

他人に不幸を与えることで自分自身は巨額の富を築き、物質的には何の不自由もなく、五官の欲望を存分に満たし、思うがまま自分勝手に生きてきた。

方や善蔵は知恵遅れということもあり、自他の利益を謀る思考自体が存在せず、それゆえに誰を恨むこともなく、肉体労働の低賃金でありながらも、純心に精一杯毎日を感謝して生きてきた。

いい歳を重ねて人生を生きたのは果たしてどちらだろう。

先に述べた”心境”を基準にしてどうだろうか。

 

僕は善蔵だと思う。

そんなまたカッコつけて、と思うだろうか。

じゃあここで、いい歳を取るとはどういうことなのか、僕の考えを述べよう。

それは、

”他人に幸せを与えることに喜びを感じながら生活すること。”

 

悪蔵の場合、自分にのみ幸せを与えることに喜びを感じ、他人に与えることには全く関心がないのだから、その点いい歳を重ねているとはとても僕には思えない。

 

 

進化し、深化し、真化し、神化する。

片岡鶴太郎さんの近著『心の中に「静」をもつ』。

その中で次のように書かれている。

 

重ねてきた時間で得たものを使うことによって、それを「進化」させて前に進む。

さらに「深化」させてより深くする。

「真化」させてより真実に近づく。

「神化」させて少しでも神のご意思を知るのです。

本文 P189

 

鶴太郎さんがここで言われているのは、歳を重ねるということは、”劣化”ではなく”進化”なんだということ。

外見は”劣化”してゆくかもしれないけど、内面では”進化”して行き、いずれは”神化”を遂げる。

それはあたかも、蝶の幼虫の柔らかい緑色の体が生長するにつれて茶色の固い蛹へと変化し、しかしその固い茶色の体から美しい蝶の成虫が生まれ出て大空へと羽ばたくようなものだと僕に感じられる。

その、

進化➡深化➡真化➡神化

への発展に欠かせないものが、自身の”心境”のグレードアップであろう。

僕はそのグレードアップさせるために欠かせない要因が、先に述べた、”他人に幸せを与えることに喜びを感じること”、だと思っている。

単純なことではあるが、これが鶴太郎さんがおっしゃるところの僕が今まで重ねてきた時間の中で得たものである。

 

心の中に「静」をもつ

 

この世への執着を絶つ。

さて最後に、以下は僕の全くの作り話を基にしたことではあるけれども、少し言及しておきたい。

パート1の物語最後の方で、悪蔵は燃え盛る船に残り彷徨うが、善蔵は天界へと旅発って行った。

この違いはなんだろか?

それはこの世への”執着”だ。

悪蔵はこの世で、自分の五官を楽しませるあらゆる欲望を満たすことを生き甲斐としていた。

まだ35歳、まだまだ欲望を満たしきれていない(って所詮満たされることはないのだが)。

そんな自分の意志に従って、死んだ後もこの世に残って欲望を尽くしたいのだ。

突然死んだって言われても、死にきれないのだ。

彼以外燃え盛るクルーザーを漂っていた人達も同じ心境だ。

一方善蔵の方は、この世への執着なんて何一つない。

あったとすれば、大好きな昆虫観察だけ。

その昆虫観察が知恵遅れであった彼の唯一の楽しみであり、その観察結果を子供達に伝え喜んでもらうことが生き甲斐でもあった。

結果善蔵は天国で、この世よりももっと素晴らしい環境で大好きな昆虫観察を続けることになった。

 

結局悪蔵も善蔵も、肉体が滅んだ後でさえも自分自身の心境に従って”生きている”のだ。

 

やはり人間は心境次第。

心境を神化させることが一番いい歳の取り方なんだ。

 

 

僕にとってそれは他人に幸せを与えること。

そんな想いで日々生活しています。

次回パート3では、なぜ人に喜びを与えることがいい歳の取り方に繋がってくるのか、についてお話します。


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