”中心帰一”の原理を正しく理解することが人生の幸不幸を左右する?

2018年4月22日

今回は読書会、第3回目となります。

谷口雅春先生著「第二青年の書」第10章から第12章までの内容、感想等について述べて参ります。

管理人注:下写真、谷口雅春先生です。「生長の家」創始者・谷口雅春先生を学ぶ会様のHPよりお借りしました。

 

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第2青年の書

 

第1、2回目の模様はこちらをご覧ください。

人間死んでも死なない(?)、という事。

性の快楽を尽くしたオスカー・ワイルドがたどり着いた境地、「悲しみの奥には聖地がある」ってどういうこと?

 

「第二青年の書」は本を購入することなく、今も読むことが可能であります(詳しくは以下のリンクをご覧ください)。

【お知らせ】読書会始めます。

 

さて、今回、この第10章から12章までの3章を読んでみて、改めて、谷口雅春先生の凄さというか、ちょっと言葉では言い表し難い感銘を受けました。

 

この本が発行されたのは昭和34年の4月、今から60年近く前です。

本で紹介されている、その当時に起こっている事象はもちろん現在とは違います。

しかし、全く、全然に、微塵も説かれている内容、文章に古さが感じられない。

このミラクルさ・・・。

時代に左右されない、普遍的内容・真理であるという証左です。

そのような本を読めることは幸せであり、その幸せを実感できることは喜びであり、それを喜べる自分は何て素晴らしいんだ思い、そんな素晴らしい自分を好きになります・・・。

 

それでは、早速行ってみましょう!

 

物事は出来上がる前に、想っていることが先にある。

ちょっと難しく言うと、”理念は現象に先立つ”、ということです。

皆さん、イメージはできると思いますが、本文で分かり易く説明されてます。

 

「奚中(けいちゅう)が車をつくって、更にその車を壊して、しきりに何かを探しているというのである。

一体何を探しているのであるかと訊くと、”車はどこへ行ったか”と探しているのである。

一体”車”というものはどこにあるのか。」というのが公案である。

部分品をいくら探しても”車”は見つからない。

”車”というものは本来理念の世界の中にあって、その理念の姿が基本となって、その理念の通りに部分品が集められたのが”車”なのである。

本文P117

 

まず、”車”とはどういうものであるのかという想いが先にあって、そして初めて”車”は作られる、ということですね。

”車”を構成する部品はあくまで”車の部品”であって、”車”自体ではない。

想いがないことには、”車”は存在しないのです。

 

 

だからこの場合、車の設計者である”人間”がいないことには、”車”も存在しない訳です。

 

それでは、”車”の設計者である”人間”はどうでしょう?

 

”人間”も”車”と同じではないでしょうか。

 

どこを持って”自分”と言うのだろう?

どこか体の一部分を持って、たとえば、心臓をもって、これが”自分”だということは何かおかしい。

やはり、その部分部分が全て集まって、集合して、形作られた体全体をもって”自分”というのが自然です。

つまり、”車”と同じように、やはり”人間”という理念が本来世界にあって、その理念の通りに体の部分部分が集められ作られたのが”人間”だと言わねばならない。

 

すると、その設計者は誰だろう・・・?

 

 

・・・それが”神”であるのですね。

 

”神”は肉眼では見えません、しかし確かに存在している・・・。

 

その証拠に、人間といえばどんな人種であろうとも、顔立ち・体着きは基本皆同じです。

眼が二つ顔の上に左右対称にあり、その下中心に鼻が一つあり、鼻孔は二つ、その下に横方向に口が一つ・・・、全ての人間がそうですね。

これを”普遍的知性””普遍の心””統一知性”などと呼び、それが”神”であるという訳です。

 

吾々本来の”命”は”神”であるのか・・・。

 

その創造者たる”神”への想いから離れる時に吾々は、”解体”してしまい、病気等の問題も起こってくるのでしょう。

本来の自分である”命=神”に自分の想いを”中心帰一”している時に吾々は一番良い状況、コンディションを保つことができるのです。

 

本文では、なぜ殺人や自殺が頻繁に起こるのか、その原因の一つを唯物思想にあると述べています。

人間を物質であると見て、”心”とは、脳髄の部分から分泌されたもので、その脳髄を破壊してやればもう苦しむこともないだろう、といった考え(そのようにはっきりとは認識していないとはしても)が基に殺人や自殺も起こると。

つまり、この唯物思想がある限り、殺人も自殺も已むことはないのです。

 

・・・なるほど、ここには確かに中心がありませんね。

帰一すべき真の中心がないから、誤った事を犯してしまうのではないでしょうか。

 

 

 

国家も同じこと。

人類愛と申しまして、国家はない、国境はない、人類は一つ、世界は一つだ、みたいな考え方がありますね。

これについて、皆さんどうお考えでしょうか?

そんなこと、自分の生活に関係ない、みたいに感じるかもしれませんが、ちょっと考えてみませんか?

なぜなら、この点をどう考えるかが、やはり吾々の人生の幸不幸を左右するからです。

先ほども述べましたが、想いが物事を形作る訳ですから、吾々一人一人の想いが社会を形成しているとも言えます。

どういう国家感、社会感を個人個人が持っているかということは、それが例え漠然であったとしても全く影響しないという訳ではなく、やはりその想いに従って、総意の一部として国家を社会を形成しているのです。

 

以前ブログで、アメリカでは学校で、生徒に毎朝国家への忠誠を誓わせていることを述べました。

本当は最高に素晴らしい日本の国歌。日本人のルーツもここにあった!

 

これがその忠誠の言葉です。

”私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、忠誠を誓います(ウィキペディアより)。”

 

 

私の理解ではありますが、これは特別のことではなく、普通の学校で行われており、アメリカで学校教育を受けたほとんどの生徒が暗唱しているはずです。

 

これが通常のアメリカ人の(自然と植え付けられた)国家感、社会感である、といってよいでしょう。

 

あのように自由を謳歌しているように見えるアメリカ人ですが、その基にある思想は国家への忠誠なのです。

国家への忠誠があってこその自由の謳歌なのです。

これはアメリカという国へのアメリカ人の中心帰一といえるのではないでしょうか?

 

 

さて翻って吾々はどういう国家、社会の形成を目指すべきなのでしょうか(というとたかが一庶民がと、大げさなな感じもしますが)?

 

ここでちょっと以下の本文、やや長い抜粋となりますが、読んでみて下さい(やや過激な表現かと思う方もいるかもしれませんが、抜粋ですので本文その前後も読んでいただければと思います)。

 

すべてこの種の個人が幸福で自由である国家をつくるという「新しい愛国心」への誘惑に乗り易いのは、その誘惑に乗る人間自身が「個人主義」であり、個体の自由と幸福をのみ願っている「蟲(ムシ)」に類似しているからなのです。

彼らは「国」というものを単に「個人が幸福を享受するための機関」であると考え、もし「国」というものが人民という個人個人の幸福や自由の享受を妨げるならば、そんな「国家」は解体して差し支えないと考えているのです。

従って彼らは「新しい愛国心」となどと言って「愛国心」という言葉を使いますけれども、実は「愛国心」でもなんでもなく、「今の国家を転覆して個人が自由と幸福を享受しうる新しい国を建てよう」という、国家破壊の革命思想を、人情に自然である「愛国心」という語に結び付けてカモフラージュしているにすぎないのであります。

本文P149-150

 

 

 

 

人間の体のところでも述べましたが、やはりここでも(国としての)中心がありません。

あるのは、国家を構成する個人への関心のみか・・・。

中心のなき個人主義の果てにあるのが、国家解体、でしょう。

 

日本国家解体を狙って、たくみに日本人を洗脳し、日本人を中心のない骨抜きの民族にしてしまおうという働きはずーっと以前、これが書かれた60年以上前から行われていたということです。

それがどの国であるか、それは今の社会情勢からして皆さんご察し出来ましょう。

 

アメリカは日本人の魂を骨抜きにしながら、自国民にはしっかりと国家への忠誠を誓わせていたのであり、今も行っている。

もし、前述したあのような忠誠を今の日本の学校で行なうとしたらどうなるでしょうか?

もの凄い反対にあうことは目に見えて明らかです。

それだけ日本だけが、本当に日本だけが、変わって、いや変わらされてしまったのです。

 

・・・その変心、それが私は、日本人の、日本という国家の素晴らしい中心でいらっしゃる天皇陛下に対する日本国民の想いに代表されていると思うのです。

こう書くと、何となくいやな気持ちが起こってくるとしたら、それが”洗脳”されている、ということでしょう。

”またそんな、天皇陛下に中心帰一なんて、戦前・戦中のような洗脳しないでよ。”

と逆に言われたりして・・・。

 

 

桜の木に咲いた花が吾々一人一人だとしたら、その桜の木が日本である。

それは大地に根付く大木である。

吾々はその桜の木を離れて咲くことはできない。

桜の花が梅の花になろうと思っても、梅の花が桜の花になろうとしても所詮無理なことだ。

桜の大木を大木ならしめているもの、雄大に、永遠にくちることなく繁栄させているその中心におられるのが天皇陛下だ。

天皇陛下の存在なくしては、この大木はなく、従って吾々の命もまた無い・・・。

 

 

 

・・・私はアメリカに住んでいます、これも運命でありましょう。

しかし、今はどこに住んでいようとも、世界は”狭い”。

自分の想いを発信することは容易に出来ます。

自分を育んでくれた祖国への、そして天皇陛下への感謝の想いが尽きることは決してありません。

その感謝の想いが永久に絶えることのないように、いや今後益々増大するように、日本人としてのその”想い”を増大させて行くことがこれからの日本を守り、繁栄させて行くことに繋がると私は信じています。

 

・・・ちょっと熱く語ってしまいました。

 

とまれ皆さん、この3章だけでも、ぜひ読んでみて下さい。

ここでは全部書ききれませんし(おそらく100分の1もない)、いかんせん、私の文章力では谷口雅春先生が書かれた本文の素晴らしさを伝えることなど到底できない(まあ、これは今回に限らずこのブログを書いている限りそうではありますが)・・・。

 

最後に日本人として、天皇陛下への感謝の気持ちを述べた、以下の抜粋をお贈りします。

歴代の天皇は、みずからは神であると仰せられたことは、一たびもその例がない。

しかし、神をまつり、神の御心を御心とせられるお姿にこそ、国民は、いつの世にも、そこに神の存在を感得したのである。

 

昭和50年1月10日、宮中の御歌会始の儀にあたって、「祭」というお題のもとに、次の語製を発表したまうた。

 

我が庭の 宮居に祭る神々に

世の平ぎを いのる朝々

 

早朝、心身を清められ、切々として、世の平らかならんことを、祈りたまうておられるのである。

このことは、すべに述べたことく、古代より歴代の天皇の毎日実行されてきたことであり、今生陛下もこれを受け継ぎたまいて、昨日の朝も、今日の朝も、明日の朝も、日々絶えることなく、実践しておられるのである。

西山徳先生著「天皇を仰ぐ」P164、178-179

 

 

日本人として生まれて有難いですね・・・。

 

さて、次回の読書会ですが、「第二青年の書」をちょっと休憩しまして、「青年の書」の中でも特に名文(個人的意見です)であります、第17章 内在無限力を発揮する自覚 について読んで行きたいを思います。

これもまた、ネットで無料で読むことができます。

このブログで紹介しております。

ネットカフェ難民から抜け出したいと思っている皆さんへ。

 

4月23日(月)に感想をアップしたいと思います。

この17章、本当素晴らしい内容です、是非読んでみて下さい!

 

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クリックしてカスタマー・リビューが読めます。その二つを以下紹介いたします。

すべての生き方に悩んでいる方にぜひ読んでもらいたい、人生最高のテキストである。この本を読んでいるかで、その人の生き方と人生が決まる。内なる声に目覚めれば、未来に自信がわき出て、それからの人生が成功に導かれる。もともと、青年用の書物であるが、幅広い年齢層の人に是非読んでもらいたい。この書をよんで、目前に起こる「奇跡の連続」に驚かざるを得ない。” By 象山さん

 

唯々素晴らしいです。未来へのバイブルであり、心の法則を軸に普遍的真理は永遠であると改めて理解させられました。これを読めばあなたも、わたしも幸福にならざるを得ないこと請け負いです。” By りりぽん推しさん

 

私がブログでこの本を紹介して推奨する理由・・・、察していただけるでしょうか?

あなたの人生の中でエポックメイキングとなり得る本なのです。

本当にそうなのか?

一度手にしてご自身でお確かめください。

研究室より

米原万里さんというロシア語の通訳、また作家として大活躍された方がいます(故人、2006年にお亡くなりになりました)。

お父さんが共産党衆議院議員の方で、お父さんの仕事の関係上、少女時代にチェコスロバキアに5年間滞在、ロシア語で授業を受け、様々な国の子供達との交友を持たれました。

その彼女が書かれた本、「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」を読む機会がありまして、これは大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞しておりますが、なかなか味わい深い内容であります。

その本文中、以下のような部分があります。

だいたい抽象的な人類の一員なんて、この世に一人も存在しないのよ。

誰もが、地球上の具体的な場所で、具体的な時間に、何らかの民族に属する親たちから生まれ、具体的な文化や気候条件のもとで、何らかの言語を母語として育つ。

どの人にも、まるで大海の一滴の水のように、母なる文化と言語が息づいている。

母国の歴史が背後霊のように絡みついている。

それから完全に自由になることは不可能よ。

そんな人、紙っぺらみたいにペラペラで面白くもない。

本文P182

 

これは、彼女が子供の時に仲が良かったアーニャという友人に何十年ぶりかに会い、非常に愛国心に燃えていた友人が変貌してしまっており、

”民族とか言葉なんて、下らないこと。人間の本質にとっては、大したものじゃないのよ。”

という言葉を受けて、彼女が発した言葉です。

最後の一言が強烈ですね・・・。

つまるところ”民族”とは各人の大きなアイデンティティを占め、それなくしては無機質な、なんの特徴もない人物に成り下がってしまうということでしょう。

大したものじゃない、と言い放った友人に対する大反論ですね。

 

管理人注:大宅壮一ノンフィクション大賞、選考委員の西木正明氏が、「恐ろしい作品。書き飛ばしているのに、それが弊害になっていない。人間デッサンを一瞬に通り過ぎながら、人物が行間からくっきり立ち上がってくる。嫉妬に駆られるような見事な描写力だ」、と評価された本です。お勧めです。


嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

 

追記:読書会第4回アップしました。

人生の勝者になるための、たった一つの要因。

 


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