性の快楽を尽くしたオスカー・ワイルドがたどり着いた境地、「悲しみの奥には聖地がある」ってどういうこと?

2018年3月19日

今回は読書会、第2回目となります。

谷口雅春先生著「第二青年の書」第4章から第9章までの内容、感想等について述べて参ります。

 

管理人注:下写真、谷口雅春先生です。「生長の家」創始者・谷口雅春先生を学ぶ会様のHPよりお借りしました。

 

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第2青年の書

 

第一回目の模様はこちらをご覧ください。

人間死んでも死なない(?)、という事。

 

選定本の「第二青年の書」ですが、現在出版されておらず、もちろん古本として購入可能ですが、その必要はありません。

平賀玄米様が亡くなられた後、マリーゴールド様が、玄米様の御意志を継いで「第二青年の書」の謹写を継続して下さっております。

ですから「第二青年の書」は本を購入することなく、今も読むことが可能であります(詳しくは以下のリンクをご覧ください)。

【お知らせ】読書会始めます。

マリーゴールド様の御心意気、心より感謝致します。

玄米様もきっとお悦びのことでしょう。

それでは早速行ってみましょう!

 

物質は存在しない、現象は無常である。

この本で述べられている大きなテーマの一つが、この”物質は存在しない、現象は無常である”、という事なんですね。

どういうことか?

ここでは例としてカメレオンの皮膚の色の変化が挙げられています。

カメレオンの皮膚の色は周りの色に合わせて変化することは皆さんご存知でしょう。

 

 

現象とはこのカメレオンの皮膚の色と同じようなもので、始終絶え間なく変わっている。

変わるということは”本来無い”ということなんですね

本来無いからこそ、消えてまた別ものへと変化することができるのです。

しかし、その元には本来変わらないものが存在するはずだ・・・。

この例でいうとそれがカメレオン自身です。

それと同じように、物質自身、姿形は変わっても、その奥に変わらないものが実在している。

それが、その本来ない物質を顕現させる”不可思議な力”なのです。

それを”生命””霊的実在”、宗教的には”神”と言ったりします。

 

私たちのようなこういう人間の姿が現れているのは以上述べました通り宇宙に充ち満ちているところの「不可思議な力」が、このように現わしているのであって、この人体の内部に「生命」として働いているのは、その「不可思議な力」そのものであるのであります。

その「不可思議な力」が人間そのものでありまして、肉体はその現われにすぎないのであります。

本文 P35

 

ですから、吾々は物質の現象的、感覚的、表面的な外観のみに囚われると人生の本質を誤ることになります。

また様々な苦しみもそこから発生してくるようです。

例えば、自分自身の体ですが、年齢を重ねるごとに当然、物質的には劣化して行きます。

いかなる人でも、いずれ老齢を迎え、皮膚は硬直し皺は増えて行きます(白髪も増えてきたり、髪の毛も次第に薄くなったりと・・・)。

その時に、自分の老齢化に悲嘆しないで、前向きに生きて行ける智慧を持っているかどうか。

あまりにも若かりし頃の肉体的見栄えに固執していると、老化した自分の姿に悲嘆してしまって一気に意気消沈してしまうかもしれません・・・。

でもそんな皺がいっぱいで醜い(必ずしもそうとは限りませんが)自分は本来存在しないんだ。

そんな移り行くものは、本来の自分の姿ではないんだ(極論、いずれ肉体は消え去りますから)。

その肉体の奥にある、不可思議な力”生命”こそが本来の自分なんだ。

そう実感することができれば外見の変化に固執することもなくなり、やがて訪れる肉体の死も自然と受け入れらるようになるのでないでしょうか。

非常にのろいように思えても、若い時は実感できなくとも、肉体は常に変化して行っています。

老いも若きもこの原則に変わりはない。

今どんなに美しい肉体美を誇る人も、その肉体美を永久に保つことはできません。

年を経るごとに、現象的に刻々と変化して行くものが肉体であるからです。

そして、いずれは滅び去ってしまう己の肉体・・・。

しかし、その奥に永遠に変わらない本来の自分が存在している。

年を重ねて行く過程で、精神的に若い時と変わらずに生き生きと感謝して生きて行ける秘訣は、ここの理解にあるのではないでしょうか。

管理人注:この「不可思議な力」については、『生命の實相』頭注版、第13巻 倫理篇 上 P84~88に書かれている、キリストとニコデモの話でも述べられています。

以下要点を抜粋します。

 

写真が歪んで映っていても、実際の人間が歪んいるとは思うな。

そのごとく現象人間が病気であっても、実相人間を病気であるとは思うな。

実相人間は肉眼では見えないのだ。

お前には風がいずこからいずこへ吹くかその形が見えるか。

実相人間の肉眼に見えないことも、この風と同じことだ。

霊によって新たに生まれるとは、現象人間から心の眼を一転して実相人間をみることだ。

本文 P86より

 

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生命の実相―頭注版 (第13巻)

 

 

オスカー・ワイルドが導いた結論。

今回述べられていることの多くの話題が、肉体と霊体、仮相と実相の対比として述べられております。

その中で、特に克服し難きテーマの一つが五官の快感にどう処するかです。

中でも”性欲”に関しては、オスカー・ワイルドの一見煌びやかな、しかし実は堕落した生活を例に特に重点的に述べれらています。

 

今回の標題にもなっております、”悲しみの奥には聖地がある”。

 

これはそんなオスカー・ワイルドによって述べられた言葉であります(以下画像、ウィキペディアよりお借りしました)。

 

 

う~ん、映画俳優のような美貌の持ち主ですね・・・。

 

彼の文業と生き様は世界中の様々な人々に影響を及ぼし、日本でいうと、森鷗外、夏目漱石、芥川龍之介、谷崎潤一郎とそうそうたる人達に影響を与え、谷口雅春先生も学生時代にかなりの影響を受けられたそうです。

彼の影響力の凄さが伺いしれますね。

下の写真は同じくウィキペディアよりですが、1882年ごろ、28歳の時です。

 

 

余談ではありますが、以下彼の語録、彼の人となりが分かるので、いくつか紹介します(同じくウィキペディアより)。

 

「男は人生を早く知りすぎるし、女は遅く知りすぎる」

 

「男は愛する女の最初の男になる事を願い、女は愛する男の最後の女になる事を願う」

 

「男の顔はその人の自伝であり、女の顔はその人の創作である」

 

「流行とは、見るに堪えられないほど醜い外貌をしているので、六ヶ月ごとに変えなければならないのだ」

 

「外見で人を判断しないのは愚か者である」

 

「ほとんどの人間は他人である。思考は誰かの意見、人生は物まね、そして情熱は引用である」

 

「うわさになるより悪いのは、うわさされないことだけである」

 

「ありふれた富は盗めるが真の富は盗めない。人の心の中にはだれにも奪えないとほうもなく尊いものがある」

 

「自分らしくあれ。ほかの人の席はすでに埋まっているのだから」

 

・・・こういった彼の言葉を聞いて当時の人々は、その芸術的、前衛的精神に心酔していったのでしょうか。

俗世間的なウィットの効いた言葉が並ぶ中、ひとつ毛色の変わった語録がありますね、富に関するものです。

”人の中にはだれにも奪えない、とほうもなく尊いものがある”、と。

実は彼も”とほうもなく尊いもの”、つまり人間の本質、生命の実相というものの存在について、実は感づいていたのでしょう。

表面上の五官の感覚に左右されるような、ふらふらしたものは簡単に手に入れることができるが、そうでないものがある。

真の生命の歓喜、人間としての尊厳といったものを完全に他人から奪い去ることはできない、ということですね。

そこを完全に離れては何人も生活することはできない、ということの裏返しではないでしょうか。

その事実を彼はたくさんの人々と交流する中で感じ取っていたのでしょう。

 

さて、ところで彼は最終的にどのような人生最期の時を迎えたのでしょうか。

以下、ウィキペディアより抜粋です。

 

❝1900年、初夏までさすらってパリ6区のホテル『L’Hôtel』に泊り、梅毒による脳髄膜炎で亡くなった。

46歳没。

ワイルドの葬儀は、ロスやダグラスのほか数人だけの淋しい葬儀であった。❞

 

・・・あれだけ世間を賑わせ、注目を浴びた彼でしたが、最後は世間からは忘れ去られた、とあります。

非常に悲しく、寂しい最期であったようです・・・。

 

 

 

悲しみの奥には聖地がある。

 

五官の極みを尽くしきった彼ですが、その女性遍歴は当然もの凄いものであったようです。

 

オスカー・ワイルドは 貴族であり、有名な作家であり、美貌であり、金持ちであるので、感覚的に自分の欲するあらゆる快楽をむさぼった。

・・・女出入りも無数にあり、感覚面に快感として感じられるあらゆる行為を「美的行為」として行ったのでありますが、感覚に感じられる快美の感じは、刺激が同じものが繰り返されると快美でなくなる。

ついに女性との交渉にはなんら美的感覚というものを感じきれなくなり、新鮮の感覚を求めてついに男色事件を起こし、法にふれてレーディングという所の獄舎に未決囚として拘置所につながれることになったのであります。

本文P71~72

 

ここで改めて思うのが、先に述べた物質はない、ということです。

性による快感の追求は幻を追いかけるようなものなのでしょう。

本来ないものにあるものを求めている、といったところでしょうか。

もちろん、私自身そのような経験自体ないですから、想像の域を出ませんが・・・。

そこまで、性の快楽を追求し実践した彼が最終的にたどり着いた境地が、

”悲しみの奥には聖地がある”

だったのです。

どういうことでしょう?

実はこういう事があったのです。

彼が獄中にいた時のこと、腰の曲がったやせ細った既決囚が、苦しそうに未決囚へと水と運んでいた。

それを可哀そうに思ったオスカー・ワイルドは老人を手助けした。

その時に老人が見せた嬉しそうな感謝と喜びの表情を見て、彼は気づいた。

”ああ、これそが本当の美しい生活だ、愛の生活だ”、と。

 

 

・・・それだけのことなのです。

 

肉体的にいくら美しい女性と性の快楽を極めたとしても、その快楽の果てには憂鬱が待っています。

本当の美しい生活、愛の生活が分からないうちは、その快楽をさらに極めて行くことで憂鬱を取り払おうとします。

しかし憂鬱はさらに大きなものとなって行き、それに連れて快楽の追求も益々激しいものとなる。

悪循環に陥ってゆく・・・。

挙句の果てに刑務所に連れてゆかれ、悲しみが最高潮に達した中、そんな何気ない日常の出来事から、やっと心の平安を得ることができた。

それを彼は”悲しみの奥には聖地がある”、と表現したのですね。

 

 

 

 

綺麗ごとをいっても結局は性欲。

 

これまたがさつな表現で申し訳ないですが、気楽に”愛してる”などとは言わない方がいいし、また言うべきでもない。

その多くは結局、往々にして自分の性欲を満たしたい、という域をでるものではないでしょうから。

それは、つまり肉体的な接触を伴うもの、ですね。

肌に触れることで、感覚的に気持ちがいい、といったことを求めるものです。

肉体を持つ人間である以上、それが悪いわけではないでしょう。

でもその奥には物質的なものを超えた精神的なものが伴わなければならない。

 

以前にもブログで述べましたが、不倫について考えてみましょう。

これも結局は、多くの場合、肉体的な快感をお互いに求めていることがほとんどではないでしょうか。

結果、程度の差こそはあれ、落ち着くところは、上の例でみたオスカー・ワイルドがたどり着いた境地と同じことになるのではないでしょうか。

 

真の幸せ、愛の生活はそこにはない、幻の幸せ、愛を追いかけていたと気づくだけだ。

 

 

真の愛とは、放つことだ、と述べられています。

 

本当に愛するということは、掴まないで、そして、その相手の内にあるところの「神なる完全なる本性」を伸びるようにしてあげるのが、本当に「愛する」ということであります。

これは親子関係だけではなく、青年男女の恋愛関係でも同じことです。

ある異性を愛しても、相手を強いて心で掴みすぎると、かえって反発してその人から逃げたくなります。

愛する相手を、相手そのものの幸福になるように、放す気持ちでいるとかえって自分のところへ帰ってくるものであります。

本文P108~109

 

自分の肉体的欲求を満たすことばかり考えていては、それは本当の愛ではないですね。

それは性欲というものです。

そういった要求に応じることもまたしかりです。

ここの線引きはしっかりと引くべです。

表面的な甘い誘惑に引っ掛かってはいけません。

本当に相手のことを想っていれば、肉体的な接触なしに相手を愛することができるはずだし、自分への見返りは期待しないものです。

またそのような心境を持つことができれば、邪な誘惑に乗るはずもありません。

 

・・・これは全くの私の所感でありますが、恋愛の一番いい形は若いうち(20代、できれば前半)に自分の伴侶を見つけて結婚し家庭を築くことです。

そしてその運命の人と長い人生を二人で助け合いながら生きて行き、素晴らしい家庭を築いて行く。

 

 

・・・これに勝る良い人生はそうそうないのではないか、と思います。

 

人生、人それぞれです。

 

独身を貫き通す人もいるでしょうし、結婚せずに、パートナーとして供に生活して行く形もあるでしょう。

 

私の場合、今まで生きてきた50年近くの人生を振り返って感じることは、一番幸せな時期は、今の妻と出合い結婚して以来の生活であったように思います。

そして、子供を授かって家族4人で生活してる今が一番幸せであろうと。

 

人生にIFはつきものです。

もしあの時ああしていたら、違った選択をしていたらどうなったであろうか・・・。

しかし、結局はどのような人生を歩もうとも、IFを思うことに変わりはないのです。

その場その場で最善と思える選択をして行くこと。

後はそれを信じて前進あるのみ。

それだからこそ、普段どのような思想、信条をもって生きているのかが非常に重要となってくるのです・・・。

人生それぞれの場面において、その時その時が一番幸せである、最終的にはそう言える人生でありたいものです。

 

このブログもその一点に於いて真であり誠でありたいと想っております。

今この時を置いてそれ以上に大事な時はないのでありますから・・。。

最上の今を生きて行くことのお手伝い、それを目指して今後とも情報提供して参ります。

 

 

さて次回は第3回目となります。

第10章より12章まで、およそ50ページを読んで参ります。

記事のアップは3月19日(月)に行う予定です。

どうぞよろしくお願い致します。

追記:第3回読書会アップしました。

”中心帰一”の原理を正しく理解することが人生の幸不幸を左右する?


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