「与えれば与えられる」の黄金律は真実である。

2018年3月19日

悲しい知らせを聞きました。

このブログにて読書会を開催しておりますが、その最初の選定本として平賀玄米様が謹写されていた「第二青年の書」を使わせて頂いています。

谷口雅春先生の御著書の普及に尽力されていた、その平賀玄米様が1月29日にお亡くなりになりました。

心よりお悔やみ申し上げるとともに、玄米様のご冥福をお祈りいたします。

これは私の想像ですが、お亡くなりになるその日まで、玄米様はおそらく謹写を続けられていた(謹写最後の御投稿はお亡くなりになられた(光様からのお知らせによると)1月29日です)。

おそらく、お亡くなりになったその日にはもう玄米様の御魂は実質体内から抜け出ておられていたのではないか。

それでも尚玄米様は謹写を続けられていた。

雅春先生の御著書を謹写されていた・・・。

この世で最後の最後、その時までご自分の使命を全うされていた。

それはもう”生き仏”として最高に素晴らしい形でこの世を旅立たれて、次の新しい世界へと向かわれたのだなあ、と思ったことです。

もちろんお会いしたことはございませんが、私の心に大きな感動を与えて下さりました。

玄米様、次なる世界でのさらなるご活躍、祈念いたしております。

合掌。

 

 

さて今回は標題の件、新たな気づきをもらいまして、また心が楽になった感があります。

その事について想うところをお話したいと思います。

 

「与えれば与えられる」の本当の意味。

与えてもらおうと思って、与えるのではダメなんだろうと思います。

なぜなら、与えてもらいたいという思いが根底にある以上、与えてもらえなかった場合にいずれ不満が沸き起こってくるからです。

それでは相手に与えることによって、こちらでは望んでいない不満という苦痛を”与えられる”ことになってしまい本末転倒ですね。

こういう心境ではまだ”悟り”の境地に至っていない、ということなのでしょう。

あんまりこの”悟り”という言葉は使いたくはないのですが、この場合、純粋に何の損得もなしに、ただ相手に与えたいという心境の例え言葉であります。

純粋に相手に与える境地になれない、心の引っ掛かりの一つが”恐怖”なんだろうと思います。

与えるという行為が何か自分の損を引き起こすのではないか、という恐怖。

相手が大きくなることで、自分の価値が下がるような不安・恐れ。

相手ばっかりに利益が行って、自分には何のプラスにもならないという不平・・・。

・・・なるほど、ここにあるもの、それは自分への関心のみですね。

「俺はどうなるの、私はどうなのよ。」

関心、興味が自分自身のみに集中している。

相手よりも、自分、自分。

 

 

 

・・・まあ、当然といえば当然です。

みんな自分が一番大切、愛しいのですから。

でも、この自分、私への想いが払拭されない限り、心から「与えよさらば与えられん」の黄金律を実感することができないということもまた事実なのだろうと思います。

 

相手に与えることが幸せだ。

理屈で言うと、自分が与えてもらいたいように、もちろん相手も与えてもらいたいと思っている。

・・・OK、じゃあ、まずは私が与えましょう、ということで相手に与えました。

相手からの見返りはなくとも与え続けました。

でも先ほども述べましたが、与えることばっかりが続くとそのうち、何でこちらばかりが与えなきゃならないのか、と普通思えてくるものです。

こちらは減る一方ですから。

・・・ところが、もし、その”こちらが減る一方”、あるいは、”こちらが与える一方”ということが全く気にならないとしたらどうでしょう。

もしそのような人がいたとしたらどうでしょう。

純粋に相手に関心をもち、愛をもち、善意をもって、その人のために深切心を発揮し実践したとしたら・・・。

実はそれがここで言う本当の意味での”与える”という意味なのではないだろうか。

そしてその結果、あくまで結果として”与えられる”という現象が起こってくるのではないだろうか。

でも本当は、その”結果”がたとえ起こらなくとも気にならない。

なぜなら、”与えた”という事実が貴いからだ。

”与えた”という行為が自分を幸せにしてくれるからだ。

それだけで十分満足であるからだ。

”結果”は付録みたいなもの、全く期待していない。

 

 

 

・・・こんな人本当にいるのだろうか?

そんな仙人みたいな、神様みたいな人、本当にいるのだろうか?

 

以下、「青年の書」より抜粋します。

私が身につまされ、心に染みた言葉です。

 

吾々が人格の向上を謀るならば、何よりも吾々は嫉妬羨望の心をすてなければならないのである。

もし吾々に嫉妬羨望の心が起こるならば、吾々は心がせまく、真にそれらの人々を愛していないからである。

もし自分の愛児が世の中に出て高く持ち上げられたならば、親たる吾らはそれを嫉妬するであろうか。

愛する者が高められることは喜びでなければならないのである。

されば嫉妬羨望するものは自らの心が狭く愛少なきことを恥じなければならないのである。

人が出世をしたら自分が損をしたように思い、人が富んだならば自分が貧しくなったように思い、それに何かとけちをつけずにはおれないのは、そ人格の狭き低き証拠である。

吾々は人のかくれたる所にてその人の美点をほめ、人のほめらるるをきいて喜び、常に人の善のみを見出して欠点を見ないときに真にその人は人格高しといい得るのである。

かくの如き人格者はたんに人格高きのみならず、不思議なる人格的魔力を以って人々をひきつけ豊かなる富をひきよせ高き名声を引き寄せることができるのである。

「青年の書」 P80-81

 

おそらくこういうことなのでしょう。

この世でのいろんな執着を捨てきって、与えきりの生活をしていたら、執着していた以上のものが自分に転がり込んできた。

あれだけ望んでいたものがようやく手に入った。

・・・あれ、でもあんまりうれしくないし、それほど感激もないや。

どうしてだろう?

ああそうだ、自分が手にしたものよりも、みんなが手にしたものを喜んでいることの方がずっと幸せなんだ。

そんな自分になったら、急にいろんなものが入ってくるようになったんだよなあ・・・。

 

「与えれば与えられる」

 

冒頭に帰りまして、平賀玄米様。

玄米様が与えられましたもの、それによって多くの方が幸せになりました。

私のような、お会いしたこともないものも、感謝の念を玄米様に送っております。

でも玄米様は果たしてそのような見返りを期待されていたでしょうか?

いや、ただ一心に、皆さんの幸せを願って善行を果たされていたに違いありません。

「与えれば与えられる」ーそれを身をもって実践され示してくださったのが玄米様であったと感じ入る次第であります。

 

今回は谷口雅春先生著『青年の書』第八章「人格の価値と魅力について」を参考に書かせて頂きました。

管理人注:下写真、谷口雅春先生です。「生長の家」創始者・谷口雅春先生を学ぶ会様のHPよりお借りしました。

 

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すべての生き方に悩んでいる方にぜひ読んでもらいたい、人生最高のテキストである。この本を読んでいるかで、その人の生き方と人生が決まる。内なる声に目覚めれば、未来に自信がわき出て、それからの人生が成功に導かれる。もともと、青年用の書物であるが、幅広い年齢層の人に是非読んでもらいたい。この書をよんで、目前に起こる「奇跡の連続」に驚かざるを得ない。” By 象山さん

唯々素晴らしいです。未来へのバイブルであり、心の法則を軸に普遍的真理は永遠であると改めて理解させられました。これを読めばあなたも、わたしも幸福にならざるを得ないこと請け負いです。” By りりぽん推しさ


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